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傘寿も過ぎ気力・体力不足に悩む日々。旅もスキーも年貢の納め時かも。まだ少し残っている知力・気力・体力を使い何をしょうか?

前書き・その他 ブログトップ

アルバム 2013 年2月3月 [前書き・その他]


2月  冬の日本海

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2月  世界らん展

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3月  横浜

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3月  千鳥ケ淵・靖国神社

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クライミングジム 2011-04-27 (水) [前書き・その他]

 最近、ブログねたが少ないのでクライミングの練習光景をUPしてみた。Aaa さんからのお誘いもあり出かけたのだが、ここは北関東の◯◯◯クライミングジムだ。先日の地震により壁の一部がづれてクライミング禁止になっているルートもある。

 平日のせいか我々総勢9名で貸し切り状態だ。久し振りにお会いする顔、顔・・・嬉しいものだ。地震で被災された方もいるがメゲずに楽しんでいる。癒されるには恰好なスポーツだろう。ある種の緊張感がモヤモヤしたものを取り除いてくれるのかもしれない。

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 それにしても女性陣のレベルはスゴイものだ。5.10, 5.11 を軽々と登っていく。あたしなど 5.8 で精一杯なのに・・・。バランスも良いし、身体も柔軟だしおまけに度胸もある。あたしに無いもの全部持っている。羨ましいやら情け無いやら。でも年齢のせいには絶対したくない。努力すれば少しは上手になるはずだ。

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 ホールディングもムーブも見ていて安心感があるし格好が良い。また、フットワークが実に素晴らしい。足を上手に使って腕の負担を軽くしているのだろう。非常に参考になるが悔しいけれど自分には出来そうにない。あたしなど腕がすぐパンプしてしまう。

 そのくせ足の力は有り余るほど残っているのだから・・・。それでもアルパインのトレーニングと考えれば楽しいものだ。華麗に登れなくってもカウンターバランスができなくっても、それなりに登ればよい。アルパイン的に言えば昔から三点支持が基本と叩き込まれたものだ。三点支持は安定した姿勢を求めるため傾斜が強いと腕に頼りがちになる。壁に正対すると壁から離れまいともろに腕で体重を支えてしまうことになり、どうしても腕力でバランスをとることになってしまう。余分な力を使い疲れてしまう。

 フットホールドから片足を外して身体を横に向ければ高いホールドにも手が届く。二点支持でバランスは外した足でとればエエ。なぁ~んて考えてはいるのだが、身体を斜めに倒すだけでも大変だ。いざ登ってみるとなんのその、そんなことはすっかり忘れてただガムシャラに登るだけ (・_・;)

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P1030468.jpg 翌日、山の道具を整理した。クライミングのギヤーだけでも結構あるものだ。フリークライミングのフリーは道具を使わないという意味なのに、なんでこんなにあるのぉ~。あたしは昔の登山者だからアルパインクライミングで育てられたものだ。今はもうフリーであろうとアルパインであろうと関係ないネ。自分の好むところを好む方法で登るだけだ。

 それにしてもフリークライミング、エイドクライミング、スポートクライミング、アルパインクライミング・・・よく解らない。

 40年前に使っていたハンマーもあった。剣や穂高で使ったものだが今は遠い遠い昔の想い出が詰まっている貴重な財産だ。そろそろ山やスキーの道具を整理しなければと考えている。いつまでも夢を追っかけていると周りが迷惑しそうだ。反面、生涯現役、死ぬまで続けるどぉーという気概もある。
困ったものだ (ーιー ;;;



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東日本大震災 [前書き・その他]


3月11日(金)に発生した三陸沖を震源とする東日本大震災により、

お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、

被災された皆様、そのご家族の方々に対しまして、

心よりお見舞い申し上げます。

安否不明の方々も沢山いらっしゃいます。

被災地の一刻も早い復旧復興をお祈り申し上げます。




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昔々のお話(その2) [前書き・その他]


P1020410.jpg 最近、腰が痛いし肩も壊している。そのうえ足の甲までも痛い。勿論、主因は加齢によるものだが、少し身体を酷使し過ぎたかもしれない。スキー、雪山登山、スポーツジム、ゴルフ・・・。腰の痛みが消えるまで山登り等の運動は全面中止となりそうなので、毎日読書三昧となる。暇なので前回の続きを書いてみることにする。

 昭和40年代初期の装備を雑誌から拾い出してみた。まず、登山靴だが今と違い大層重かった。殆どが表皮仕様で裏皮仕様は少なかった。靴底は高価なものはビムラム仕様で、安いものはゴム底となる。

 ビブラムは当時靴底に使われ始めたばかりで、摩耗に強くイタリー製だ。また当時はハイキング専用のキャラバンシューズというものもあり重宝された。ナイロンと帆布等で出来ていて底は当然ゴムで柔らかでした。保温、防水効果は期待出来なかったが軽くて足にも優しかったので夏期の北アルプスなどでも結構使われていたものだ。

P1020411.jpg 特に、女性やハイカーには人気があった。価格も1500円~2000円程度だったと記憶している。しかし、重荷を担いだり、雪山となると今で言う革製の重登山靴となる。価格は5000円~15000円程度で品質にも相当な差があったようだ。

 イタリー製だがツェルマット社製は軽く、皮も柔らかく靴底もビムラムで格好も良かった。なによりも色が茶色で当時の黒一色と比べ目立ったものだ。当時はベテランのお年寄りなどは鋲を靴底に打ったものを履いていました。ナーゲルと言いましたが足首に折り返しなどもあり超重そうです。下のほうに画像がありますがスゲー迫力です。

 大昔はこんなもの履いて岩登りもしてたようです。あな、先達とはオトロシヤれす。当時は普通の紳士靴も靴底は皮だったため減る箇所に鋲を打ち、減れば定期的に鋲を取り替えたものです。

 冬山では登山靴はシュラフの中にいれて寝ました。テントの中に放置しておくと朝、凍って履けなくなってしまうのです。皮の加工技術が稚拙だったのでしょうし、テント内も寒かった。山登りを始めた頃はキャラバンシューズでした。六甲山、比良山、葛城山、大峰山系、剣山、石鎚山、伊吹山、大山・・・などはこのキャラバンシューズを履いて一人で登ったものです。

 当時、自家用車を持っている山屋はまず見なかったですね。乗り合いバス(鼻先の出っ張っている)利用ですが道路もお粗末でしたので歩く距離は今と違って相当長かったのです。

 山岳会に入り革靴にしましたが何度か買い換えました。春夏秋冬いつも同じ靴ですから傷みも早い訳です。縦走、岩登り、冬山の全てを一足でこなしました。唯一、沢登りだけは地下足袋と草鞋の併用でした。岩登りのためか、つま先の皮が減って穴があいてきます。当時岩登り専用のクレッタシューズも出始めましたがまだ使う人は少なかったですね。

 冬山はこの革靴の上にオーバーシューズを履きアイゼンを着け状況によりワカンを付けます。オーバーシューズは今のスパッツとテントシューズを合体させたようなもので現在でもヒマラヤのような高所では特殊な仕様で使われているようです。スパッツも当時ありましたが靴の保温性が悪いためオーバーシューズでそっくり靴全体を包み込んだのです。

 勿論、プラスチック仕様や化学繊維仕様の保温性に優れた高所用の登山靴の登場はずーっと後のことでした。ワカンも木製でしたので軽かった。特に立山芦峅のワカンは良かった。今でも売ってるようですが。

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 ピッケルとアイゼンです。当時、山之内、シモン、門田などが有名でした。シャフトは木製でアマニ油などで手入れしたものですが強度は弱かった。あたしも門田のピッケルを一本折ってしまった事があります。今のようにシャフトが変形していてアイスクライミング専用は無かった。ピッケルを短くしたアイスバイルはありましたが。ブレードとピックは炭素鋼で日本刀の材料と同じだと、当時のあたしのようなバカ者は喜んだものです。高価なものはモリブデン鋼などの特殊鋼が使われていたようです。錆びやすいので手入れは欠かせませんでしたがね。

 昔のアイゼンも軽アイゼンは除き8本~12本爪でした。10本爪も前爪が蹴り込めるように水平に出ているものや下向きになっているものなどがあり、確かアタッチメント方式で前爪を取り替えられるものもあったと記憶しています。当時の国内では今ほどアイスクライミングは盛んで無かったようです。冬期にも入山規制は無く厳冬期の一ノ倉、剣、穂高も自由に入れたので氷壁を求めなくても岩と雪のミックスルートで充分楽しめたものです。昔、日光雲竜渓谷の滝見物に出かけ、友知らずの滝の基部あたりでアイスクライミングの練習をしました。前爪の無いアイゼンだったので少し傾斜が強くなると手こずりますが、昔のアイゼンは爪の形が単純だったので刺さりやすかった気もします。そんなことより最近の温暖化で全面凍結することがあるのかが問題ですがね。もう一度見物がてらに訪れたい場所です。

 今のアイゼンは特殊鋼のプレス打ち抜き加工ですが、昔の海外メーカーのアイゼンなどには本体に爪を溶接しているのもありました。リングも打ち抜き、溶接といろいろでした。当然、溶接技術が悪ければ爪は折れるかもしれないし、焼き入れの巧拙により爪が折れたり爪先がスグまるくなったりしたかもしれません。幸いあたしにはそんな不運はありませんでした。ただ、アジャスト部分の棒状のネジが岩稜歩行により潰れて苦労したことがありました。また、今より相当重かったですね。今は軽量の特殊鋼仕様でワンタッチ式もありダンゴ防止のプレートまで付いている。それでも、当時から40年を経たにしてはそれ程形状も性能も変わってないですネ。世の中の技術進歩と比べれば明らかに遅れていると愚考します。もっともコンクリートのような堅い氷にも爪が楽に刺さるのも考えものです。

 主観的ですが、山の道具や装備の進歩は必要だとは思うが革新的なテクノロジーは使いたくないですネ。ほどほどが良いかと思います。苦労、困難、危険の全くない山登りなんて面白くもなんともありましぇん。
価格はピッケル、アイゼンとも10000円前後でした。登山靴はもう少し高かったけれど、それにしても当時の大卒初任給25000~30000円と比べると高価なのは否めましぇん。

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 ↑ ナーゲルと言われていた鋲を打った登山靴です。スゲーものですね。
キスリングはいつ頃消えてしまったのか?。昔、新人の頃、このキスリングの上に大きな鍋を載っけて歩いたこともある。あたしは新人ですと、丸出しです。恥ずかしかったものです。このキスリングを背負って縦走したこともある。大キレットではキスリングのポケットが岩に辺り身体が振られてバランスを崩しそうになった。沢山の荷物をパッキングできるし、ザックの上部にテントなども積めるので重宝したが岩場の通過では泣きが入ったものだ。また素材が帆布で出来ているため重いし雨にも弱い。
勿論、アタックザックと言って今風の縦長ザックもあり岩登りや2~3日の山行で使っていました。
画像のようにデイバックは上部を巾着袋のように紐で縛っているだけのシンプルなものもありました。

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P1020422.jpg 冬山用のオーバーシューズ、オーバーズボン、ヤッケ、オーバーミトンなどは比較的安かったですがナイロンやビニロン製でした。厚目のテトロン製はもう少し高かったと思います。

 新人の頃は先輩から木綿のヤッケやオーバーズボンを頂きありがたがったものです。「スリップしても木綿の素材はナイロン、テトロンと比べて摩擦抵抗が大きく安全だから初心者にはエエのだ。」なぁーんて言われましたが、一度濡れて凍るとバリバリになるので雪洞では悲惨でした。兎に角、綿や麻の製品はなんでもかんでも全てバリバリに凍りました。靴紐もザックの紐もまるで針金です。

 下着も現在のような特殊繊維仕様で防寒、防水で汗をかいてもスグ乾く・・・夢の夢でした。
当時の冬山の下着は毛糸のパンツとシャツです。しかし、毛糸のパンツはチクチクして気持ち悪かった記憶がありますが・・・。毛糸のパンツは年寄り向けに売られていたのか、それとも毛糸の股引(パッチ)をチョン切ったのか失念してしまいました。
毛糸のシャツと云っても薄手のセーターを下着代わりにしただけですからこれもチクチクとしましたが慣れてしまえば暖かかった。
冬山衣類は全て純毛でした。木綿は「死ぬドー」といつも脅かされていたものです。

 手袋はアメリカの進駐軍の払い下げと云われていたミトンが安かった。大きいのでオーバーミトン代わりに使用しました。アメリカ空軍払い下げ羽毛服なぁーんてものもありました。進駐軍なぁーんて言葉は今では死語ですが・・・。

 テントはビニロンやナイロン製でしたが今のゴアーテックスとは比較にならない代物でした。シュラフも同様ですが羽毛シュラフも出始めた頃です。羽毛の普通サイズは高価だったけれど羽毛の半シュラフは比較的安く手に入りましたので重宝しました。少々寒いのを我慢してシュラフカバーと併用し冬山でも結構使いましたね。シュラフは昔も今もそれほど進歩はありません。羽毛といえど濡れればなかなか乾かない。当時は中国のアヒルが一番エエとか言ってましたネ。

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P1020425.jpg ザイルは40Mか30Mが一般的でした。岩登りのゲレンデではマニラ麻のザイルを使い雪山ではナイロンを使いました。もっともお金持ちパーテイはゲレンデでもナイロンでした。当時のナイロンザイルは伸びるしキンクするし、井上靖の“氷壁”ではないが鋭角には弱かった。

 ハーケンは縦、横、変形といろいろありましたし、埋め込みボルトの全盛期だったかもしれません。何を好んでか岩壁のツルツルの部分を選んで登ります。ボルトとアブミを使えば手がかりの無いオーバーハングも腕力さえあれば越えられたので安易な使い方をされました。


 タガネのようなものをハンマーで打ち込み穿孔し先端にクサビのついたボルトを叩き込みます。ボルトのリングにカラビナを掛けアブミを利用して登ります。スキルでは無く腕力と体力勝負ですし、三点支持もクソも無しれす。身体を宙づりにして両手を使ってドリリングです。堅い花崗岩だと一本打ち込むのに20~30分掛かる場合もあります。両手を一杯上に伸ばして孔をあけるのですからあたしのような非力なものはお呼びじゃなかったです。ボルトのリングは打ち抜きでしたが墜落などすると伸びるし、またボルトがスッポ抜ける場合もあります。
まぁー、ハーケンも同じようなものですが・・・。

 当時、まだ現代のようなカムはありませんでした。木のクサビなぁーんてあったようですが見たことはありましぇん。アイスハーケンも打ち込み式からスクリュー式に変わったところだったし、カラビナも鉄から軽金属に変わり始めたところでした。この時代は人工登攀に向けてのアルパインの歴史の過渡期とも言えるかもしれません。この時代を経て現代のアルバインクライミングにフリークライミングのルートが開拓されたと言えます。すなわち人工的な道具の使用を極力控えて自分の手足を使い壁をよじ登る思想が広がったのです。

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 当時、ホエーブス(コンロ)は石油仕様とガソリン仕様が大半でした。いずれも携帯燃料のカケラなどで少し暖めてガスを発生させてから着火させた。今考えると現代のガス式とは違いモノスゴク怖い代物レス。当時のお進めはスエーデン製だったように記憶しています。縦走などではガソリンや石油の入ったポリタンをザックに入れて担ぐ訳です。蓋をしっかり閉めていてもザックの中は臭くなります。食料品とは隔離しなければなりません。また当時、テントの中でのタバコなど平気だったのでガソリンの補充などはオットロシィ~~のれした。

 冬山では発火点の低いガソリンが好まれましたが気化させるノズルなどが詰まり、たびたびテントの中で分解掃除をしたものです。現代のガスコンロは酸欠が怖いのれすが、当時のホエーブスは生ガスのため目の痛さとの戦いでした。酸欠以前のオソマツなことでしたネ。テントの中の明かりはローソクでしたが百目蝋燭といって太いものを使っていました。でもテントが火事で焼け死んだという話は聞かなかったですね。「・・・・・。」

 飯盒は良く使いました。個人山行は勿論、合宿などでも使いました。行動中はレーションですがビバーク覚悟のアタックに出かける時には重宝したものです。合宿の夜は大鍋で・・・となりますが。その他、高度計などもありましたが、高くて、まだまだ普及には程遠いものでしたね。

 また、長々と書いてしまいました。書いていると当時のことがいろいろと思い出されて懐かしく感傷的にもなります。これが歳を重ねるということでしょう。まだ書き足らないのでいつか機会があれば書いてみたいと思います。

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昔々のお話(その1) [前書き・その他]


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 先日、あたしの家の納屋で一匹のネズミと目が合った。調べてみると納屋の床が腐って穴があいていて、ここからネズミが時々出入りしているようだ。5月の連休といったって出掛ける予定も無いので修理することにした。その際、中の本や雑誌も整理したが古い山の雑誌もあり楽しませてもらった。なかなか興味深い記事もあり一部抜粋することにした。

 『岩と雪』は山と渓谷社が発刊していたが昭和41年(1966年)頃は不定期の発刊で年1~2回ほどの発行だったように記憶している。価格は1冊300 円。発刊されるのを楽しみに待っていたことを覚えています。内容は雑誌『山と渓谷』や『岳人』より高度なアルパインスタイルの登攀を中心にした記事が主でした。当然、海外の遠征や記録、紹介等、当時の我々山好きの若者にとっては夢が一杯詰まっていた雑誌でした。現在も刊行されているのかどうかは不明。
『岳人』も昭和40 年代後半のものがあり1冊200 円だった。

 確かあたしが山登りを始めたのは昭和 37 年で予備校に通っていた時でした。最初の山は六甲山だったか伊吹山だったか記憶が不鮮明です。40 年代は山岳会に入っていましたので毎年50~60日間入山していたようです。あたしの人生のうち一番燃えていた数年間です。ちょうどその頃の雑誌となります。

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P1020430.jpg 深田久弥氏の世界百名山の連載記事を見つけた。氏というより先生と言わなければならないのかも・・・。
まだ5個目の世界百名山だし、勿論志し半ばで遺稿になった。日本百名山は全て自分で登っているが、世界百名山はいろいろな記録や調査に基づく執筆であり、自分で登った記録ではない。深田氏は先鋭的なアルパイン的登山はしなかった人だったが、ヒマラヤやシルクロードの調査隊長として何度か遠征や旅行に出かけている。最終的に世界百名山は何座執筆されたのだろう。当時、日本は高度成長期に入り、また国内の未踏の岩壁もほぼ無くなったので海外の山に目が向け始められた頃でもあった。

 深田氏のヒマラヤの研究は先鋭的なアルピニストにとって貴重な資料を提供したはずである。この頁の連載記事を書かれた翌年の1971年、茅ケ岳山頂近くの登山道途中で休憩していた時、脳卒中のため急逝された。

 日本百名山は現在でも中高年の山登り愛好家にとってのバイブルであり、今後とも長く受け入れられるでしょう。ただ、百名山の選定に関して批判的な評価や異論も多々ある。北海道・東北・関東・中部に集中していて西日本は極端に少ない。昔からの信仰対象の山が多い。また百名山ブームのため対象となる山の登山道や小屋は立派になり、反面、マイナーな山の登山道などは荒廃が進んでいる。ただ書いたご本人も「主観によって選んだものであるから妥当とはいえない。」と記しているので、まぁーエエじゃないかとなりますが。

 あたしなどはお金も体力も無いので百名山登頂は無理です。また、百名山は登山者が多く騒がしいので嫌いれす。時間だけはたっぷりありますが、じぇんじぇん関心無しれす。と言いながらこの際チェックしてみたら 32座登頂していましたネ。
まだと言って良いのか、もうと言ったら良いのか、あと 68座・・・
年 5座としても約 14年。もう、死んでるぅぅぅ~~。

P1020471.jpg 小西政継氏や森田勝氏の記録もあり懐かしい。小西政継氏は28歳でマッターホルン冬期北壁第三登。途中でアイゼンを片方落っことしてしまうが完登。畏るべき鉄人なんでしょう。当時の先鋭的なクライマーはまだ一ノ倉に執着していたのですが彼は海外の原書を翻訳しアルプスの三大北壁やヒマラヤに夢を馳せていたようです。


 グランドジョラス北壁では凍傷で手足の指を10本失ったが冬期第三登しました。棲まじい精神力です。著書も沢山ありましたが殆ど読みましたね。最近では、図書館にたまたま「凍てる岩肌に魅せられて」という単行本があったので懐かしく再読いたしました。57歳の時マナスル登頂後消息を絶ちましたがこのあたりの描写は佐瀬稔氏(ガンで亡くなった)の遺稿集「残された山靴」に収録されています。

 佐瀬稔氏は登山家ではなかったけれど、困難な峰に挑んだ日本のある時代の先鋭的なクライマー8人のそれぞれの人生と最後の情景を見事に描写していました。彼にとってもこれが最後の著作でありその執念が感じられた。読んだ後、本って『いいなぁー』と再認識しましたね。 「残された山靴」は最近読んだ本の中では最高に感動した一冊です。

P1020470.jpg 森田勝氏の記録です。森田氏は緑山岳会、因みに小西政継氏は山岳同志会です。どちらも日本で一、二を争う先鋭的な社会人団体の山岳会でした。あたしが所属していた会が黒部別山の別山沢を開拓していた頃、黒部別山と内蔵助沢を挟んだ丸山東壁の正面をボルト連打で緑山岳会が数日掛けてダイレクトにルートを開拓していました。

 なんとスゲーことをするもんだと、オロロキました。後にボルト連打の是非は問われましたがネ・・・。現在のフリークライミングの思想とは全く正反対です。この記事の谷川岳滝沢第三スラブ冬期登攀はあまりにも危険過ぎて当時の山岳会は対象にしなかったというか登攀禁止でしたけれど、一ノ倉の冬期で最後まで残った唯一のビックルートでした。森田氏は緑山岳会を脱会して初登攀したようです。今は冬期入山規制が敷かれているのでこのような記事を見ると寂しさを感じます。当時の先鋭的なクライマーは殆ど岩壁で墜死しましたネ。良いも悪いも、青春を燃やし尽くしたということでしょうか。
あたしなど当時、この三スラは夏期でもお呼びじゃなかったれす。
怖すぎるぅぅぅ~~。おぞましいぃぃぃ~~。そんな感覚でしたね。

 この森田勝氏と対比されるのが長谷川恒男氏(アルプス三大北壁冬期ソロ完登、世界初)となるが長くなるので割愛します。後年、森田勝氏は怨念のグランドジョラス冬期北壁で墜死。長谷川恒男氏はパキスタンのウルタルⅡ峰南西壁で雪崩れに巻き込まれて遭難死する。森田勝氏の著作は無いが関連書籍として下記に記しておきます。

佐瀬稔著 『狼は帰らず : アルピニスト・森田勝の生と死』
佐瀬稔著 『長谷川恒男虚空の登攀者』

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 ↑ なかなか面白い記事を見つけました。判読し難いかもしれないので下記に要約します。
当時の日本からヨーロッパ・アルプスへ行く手段です。

1.横浜(船で2泊3日、食事付き)~ナホトカ(汽車で16 時間、食事付き)=ハバロフスク(飛行機で9時間、食事付き)―モスクワ(汽車で2日間、食事付き)=ウイーン。主として汽車を利用。横浜からシャモニまで約8日間、費用は往復で約25 万円。

2.羽田(飛行機で20 時間、食事付き)―パリ。往復で46 万円。

3.横浜(船で34 日間、食事付き)~マルセーユ。片道で16 万円。
勿論、為替レートは360 円/1ドルで当時の大卒初任給は2万5千円/月 程度です。飛行機だと荷物が20 ㎏を超過すると1㎏あたり4000円の支払いとなります。汽車だと荷物制限は30 ㎏、船は50~150 ㎏となります。

 当時、一番人気があったのは資金と荷物の関係で1.のシベリヤ経由の汽車の旅でした。それでも交通費が初任給の10倍です。現在の格安海外旅行と比べると雲泥の差ですね。当時、少し山を囓ったことのある生意気なあたしのような若造達が「汽車もエエなぁー。」「船も楽しいでぇー。」 なぁーんて行く気もないくせに、というより資金以上に登攀技術と能力で資格無しれすが・・・。でも楽しい夢を見させて貰った青春の一コマでした。
このことからもヒマラヤ遠征はよほど確かなスポンサーが無い限り不可能でしたネ。この記事は昭和42 年ですが、あたしの青春真っ只中の時代でした。

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 ↑ 三浦雄一朗氏のスキー探検隊の大惨事です。探検隊というと何やら危険な臭いがプンプンとします。まさしくその通りになってしまったのですが。あの三浦雄一朗氏にも若い頃、このような経験があったのかと感慨深いものがあります。

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 ↑ 当時の日当は1200~1300 円程度でしたので比較値は現在と変わらないですね。新穂高ロープウェイもまだ鍋平までだったと思います。

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P1020443.jpg 当時の雑誌は現在のようなカラフルなものでなく、カラーのグラビアなどはほんの一部で大半はモノクロ写真でした。ルート図なども大半は手書きで、これがまた上手だったですね。チンネのルート図を見るとこのルートはいつ誰と登ったかがスグ思い出されます。そういえばハーケンが抜けて5メーターほど落っこちたてなこともネ・・・。

 黒部川源流の図にしてもここでクマさんにバッタリだったと思い起こされます。今は死んだような目の色ですが、ワッカイ頃はキラキラと目を輝かせてこのような図を見ながら遠くの頂に思いを馳せていたものれす。

 深田久弥氏の言辞はいろいろあるが有名なものは 『百の頂に百の喜びあり』 『人に人格があるように、山には山格がある』 この二つを考えると山格があるのは百名山だけかい?と批評がましくなります。
『山に行き 何をしてくる 山へ行き みしみし歩き 水飲んでくる 』 この言葉は大好きです。哲学的に考えなくても良いのがエエ。あたしなど、山に出かけたその行動だけでも自分を誉めます。

 古い雑誌を見ていると懐かしくなり、いろいろと回顧しながら長々と書いてしまいました。今度は昭和40 年頃の山の道具や装備を書いてみようと愚考しています。 



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まえがき [前書き・その他]


 山行の記録を思い出しながら書くことにする。
少々ボケているので記憶も曖昧だが・・・

 昨年11月に谷川岳に登った。山登りは実に40年ぶりなのだ。
膝が痛くて天神平までほうほうの体で帰ってきた。
最終のロープウエイになんとか間に合ったが、とても山登りする体力は無いと痛感した次第である。

 山の道具は全て揃っていたはず。
といっても40年前の道具が役に立つかどうか・・・
以前、押入と倉庫を徹底的に探してみたが一切見あたらない。
家内に聞いても知らぬ存ぜぬじゃ。
どうもあたしが想像するには、二度と登ることはないと思い未練が残らないよう処分してしまったのかもしれない。
門田のピッケルとアイゼンはいかにも惜しい。
山靴や衣類は有ったとしても使い物にはなるまい。
よって昨年の谷川岳は定価3,000円のウオーキングシューズと娘の小さなザックで出かけた。もっとも装備より身体のガタが大問題だったのだが。

 今年の春頃より、スポーツジムでトレーニングを始める。週2回のペースだ。
心肺機能や脚力も少しは回復したようだ。歳はとりたくないもんだ。

 一年ぶりの谷川岳山行を計画している。
ジムでのトレーニングの効果はどうか?
少しは脂肪は落ちているし筋肉もほんの少々付いてきたように感じる。
歳をとると比較的簡単に脂肪は落ちるようだが、筋肉はなかなか付くもんではない。
まぁー、昔とった杵柄というやつで、何とかなる感じはする。

 装備も山靴以下、当面必要なものは揃えた。結構な出費となったが海外旅行に行ったと思えば安いもんだ。

 リアルタイムに山行の翌日アップロードとはいくまい。ただ、時間が経つにつれ、あたしの記憶は加速度的に薄れる。早めに UP することにしょう。

 山行記録以外にもいろいろと書いてみたいと思っている。
公開するには多少気が引けるが、あたしも山行の励みになるかもしれん。
昨年の谷川岳の写真をテストとしてアップロードしてみる。



2005-11-02 (Wed) 快晴

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 国境稜線より見下ろした一の倉沢、テールリッジ周辺には残雪あり。

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 トマの耳

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 オキの耳谷川岳山頂、新雪がうっすらと残っている


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 稜線、右はマチガ沢上部

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 新雪

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 稜線上のナナカマド



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