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傘寿も過ぎ気力・体力不足に悩む日々。旅もスキーも年貢の納め時かも。まだ少し残っている知力・気力・体力を使い何をしょうか?

昔々のお話(その1) [前書き・その他]


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 先日、あたしの家の納屋で一匹のネズミと目が合った。調べてみると納屋の床が腐って穴があいていて、ここからネズミが時々出入りしているようだ。5月の連休といったって出掛ける予定も無いので修理することにした。その際、中の本や雑誌も整理したが古い山の雑誌もあり楽しませてもらった。なかなか興味深い記事もあり一部抜粋することにした。

 『岩と雪』は山と渓谷社が発刊していたが昭和41年(1966年)頃は不定期の発刊で年1~2回ほどの発行だったように記憶している。価格は1冊300 円。発刊されるのを楽しみに待っていたことを覚えています。内容は雑誌『山と渓谷』や『岳人』より高度なアルパインスタイルの登攀を中心にした記事が主でした。当然、海外の遠征や記録、紹介等、当時の我々山好きの若者にとっては夢が一杯詰まっていた雑誌でした。現在も刊行されているのかどうかは不明。
『岳人』も昭和40 年代後半のものがあり1冊200 円だった。

 確かあたしが山登りを始めたのは昭和 37 年で予備校に通っていた時でした。最初の山は六甲山だったか伊吹山だったか記憶が不鮮明です。40 年代は山岳会に入っていましたので毎年50~60日間入山していたようです。あたしの人生のうち一番燃えていた数年間です。ちょうどその頃の雑誌となります。

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P1020430.jpg 深田久弥氏の世界百名山の連載記事を見つけた。氏というより先生と言わなければならないのかも・・・。
まだ5個目の世界百名山だし、勿論志し半ばで遺稿になった。日本百名山は全て自分で登っているが、世界百名山はいろいろな記録や調査に基づく執筆であり、自分で登った記録ではない。深田氏は先鋭的なアルパイン的登山はしなかった人だったが、ヒマラヤやシルクロードの調査隊長として何度か遠征や旅行に出かけている。最終的に世界百名山は何座執筆されたのだろう。当時、日本は高度成長期に入り、また国内の未踏の岩壁もほぼ無くなったので海外の山に目が向け始められた頃でもあった。

 深田氏のヒマラヤの研究は先鋭的なアルピニストにとって貴重な資料を提供したはずである。この頁の連載記事を書かれた翌年の1971年、茅ケ岳山頂近くの登山道途中で休憩していた時、脳卒中のため急逝された。

 日本百名山は現在でも中高年の山登り愛好家にとってのバイブルであり、今後とも長く受け入れられるでしょう。ただ、百名山の選定に関して批判的な評価や異論も多々ある。北海道・東北・関東・中部に集中していて西日本は極端に少ない。昔からの信仰対象の山が多い。また百名山ブームのため対象となる山の登山道や小屋は立派になり、反面、マイナーな山の登山道などは荒廃が進んでいる。ただ書いたご本人も「主観によって選んだものであるから妥当とはいえない。」と記しているので、まぁーエエじゃないかとなりますが。

 あたしなどはお金も体力も無いので百名山登頂は無理です。また、百名山は登山者が多く騒がしいので嫌いれす。時間だけはたっぷりありますが、じぇんじぇん関心無しれす。と言いながらこの際チェックしてみたら 32座登頂していましたネ。
まだと言って良いのか、もうと言ったら良いのか、あと 68座・・・
年 5座としても約 14年。もう、死んでるぅぅぅ~~。

P1020471.jpg 小西政継氏や森田勝氏の記録もあり懐かしい。小西政継氏は28歳でマッターホルン冬期北壁第三登。途中でアイゼンを片方落っことしてしまうが完登。畏るべき鉄人なんでしょう。当時の先鋭的なクライマーはまだ一ノ倉に執着していたのですが彼は海外の原書を翻訳しアルプスの三大北壁やヒマラヤに夢を馳せていたようです。


 グランドジョラス北壁では凍傷で手足の指を10本失ったが冬期第三登しました。棲まじい精神力です。著書も沢山ありましたが殆ど読みましたね。最近では、図書館にたまたま「凍てる岩肌に魅せられて」という単行本があったので懐かしく再読いたしました。57歳の時マナスル登頂後消息を絶ちましたがこのあたりの描写は佐瀬稔氏(ガンで亡くなった)の遺稿集「残された山靴」に収録されています。

 佐瀬稔氏は登山家ではなかったけれど、困難な峰に挑んだ日本のある時代の先鋭的なクライマー8人のそれぞれの人生と最後の情景を見事に描写していました。彼にとってもこれが最後の著作でありその執念が感じられた。読んだ後、本って『いいなぁー』と再認識しましたね。 「残された山靴」は最近読んだ本の中では最高に感動した一冊です。

P1020470.jpg 森田勝氏の記録です。森田氏は緑山岳会、因みに小西政継氏は山岳同志会です。どちらも日本で一、二を争う先鋭的な社会人団体の山岳会でした。あたしが所属していた会が黒部別山の別山沢を開拓していた頃、黒部別山と内蔵助沢を挟んだ丸山東壁の正面をボルト連打で緑山岳会が数日掛けてダイレクトにルートを開拓していました。

 なんとスゲーことをするもんだと、オロロキました。後にボルト連打の是非は問われましたがネ・・・。現在のフリークライミングの思想とは全く正反対です。この記事の谷川岳滝沢第三スラブ冬期登攀はあまりにも危険過ぎて当時の山岳会は対象にしなかったというか登攀禁止でしたけれど、一ノ倉の冬期で最後まで残った唯一のビックルートでした。森田氏は緑山岳会を脱会して初登攀したようです。今は冬期入山規制が敷かれているのでこのような記事を見ると寂しさを感じます。当時の先鋭的なクライマーは殆ど岩壁で墜死しましたネ。良いも悪いも、青春を燃やし尽くしたということでしょうか。
あたしなど当時、この三スラは夏期でもお呼びじゃなかったれす。
怖すぎるぅぅぅ~~。おぞましいぃぃぃ~~。そんな感覚でしたね。

 この森田勝氏と対比されるのが長谷川恒男氏(アルプス三大北壁冬期ソロ完登、世界初)となるが長くなるので割愛します。後年、森田勝氏は怨念のグランドジョラス冬期北壁で墜死。長谷川恒男氏はパキスタンのウルタルⅡ峰南西壁で雪崩れに巻き込まれて遭難死する。森田勝氏の著作は無いが関連書籍として下記に記しておきます。

佐瀬稔著 『狼は帰らず : アルピニスト・森田勝の生と死』
佐瀬稔著 『長谷川恒男虚空の登攀者』

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 ↑ なかなか面白い記事を見つけました。判読し難いかもしれないので下記に要約します。
当時の日本からヨーロッパ・アルプスへ行く手段です。

1.横浜(船で2泊3日、食事付き)~ナホトカ(汽車で16 時間、食事付き)=ハバロフスク(飛行機で9時間、食事付き)―モスクワ(汽車で2日間、食事付き)=ウイーン。主として汽車を利用。横浜からシャモニまで約8日間、費用は往復で約25 万円。

2.羽田(飛行機で20 時間、食事付き)―パリ。往復で46 万円。

3.横浜(船で34 日間、食事付き)~マルセーユ。片道で16 万円。
勿論、為替レートは360 円/1ドルで当時の大卒初任給は2万5千円/月 程度です。飛行機だと荷物が20 ㎏を超過すると1㎏あたり4000円の支払いとなります。汽車だと荷物制限は30 ㎏、船は50~150 ㎏となります。

 当時、一番人気があったのは資金と荷物の関係で1.のシベリヤ経由の汽車の旅でした。それでも交通費が初任給の10倍です。現在の格安海外旅行と比べると雲泥の差ですね。当時、少し山を囓ったことのある生意気なあたしのような若造達が「汽車もエエなぁー。」「船も楽しいでぇー。」 なぁーんて行く気もないくせに、というより資金以上に登攀技術と能力で資格無しれすが・・・。でも楽しい夢を見させて貰った青春の一コマでした。
このことからもヒマラヤ遠征はよほど確かなスポンサーが無い限り不可能でしたネ。この記事は昭和42 年ですが、あたしの青春真っ只中の時代でした。

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 ↑ 三浦雄一朗氏のスキー探検隊の大惨事です。探検隊というと何やら危険な臭いがプンプンとします。まさしくその通りになってしまったのですが。あの三浦雄一朗氏にも若い頃、このような経験があったのかと感慨深いものがあります。

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 ↑ 当時の日当は1200~1300 円程度でしたので比較値は現在と変わらないですね。新穂高ロープウェイもまだ鍋平までだったと思います。

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P1020443.jpg 当時の雑誌は現在のようなカラフルなものでなく、カラーのグラビアなどはほんの一部で大半はモノクロ写真でした。ルート図なども大半は手書きで、これがまた上手だったですね。チンネのルート図を見るとこのルートはいつ誰と登ったかがスグ思い出されます。そういえばハーケンが抜けて5メーターほど落っこちたてなこともネ・・・。

 黒部川源流の図にしてもここでクマさんにバッタリだったと思い起こされます。今は死んだような目の色ですが、ワッカイ頃はキラキラと目を輝かせてこのような図を見ながら遠くの頂に思いを馳せていたものれす。

 深田久弥氏の言辞はいろいろあるが有名なものは 『百の頂に百の喜びあり』 『人に人格があるように、山には山格がある』 この二つを考えると山格があるのは百名山だけかい?と批評がましくなります。
『山に行き 何をしてくる 山へ行き みしみし歩き 水飲んでくる 』 この言葉は大好きです。哲学的に考えなくても良いのがエエ。あたしなど、山に出かけたその行動だけでも自分を誉めます。

 古い雑誌を見ていると懐かしくなり、いろいろと回顧しながら長々と書いてしまいました。今度は昭和40 年頃の山の道具や装備を書いてみようと愚考しています。 



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