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傘寿も過ぎ気力・体力不足に悩む日々。旅もスキーも年貢の納め時かも。まだ少し残っている知力・気力・体力を使い何をしょうか?

昔々のお話(その2) [前書き・その他]


P1020410.jpg 最近、腰が痛いし肩も壊している。そのうえ足の甲までも痛い。勿論、主因は加齢によるものだが、少し身体を酷使し過ぎたかもしれない。スキー、雪山登山、スポーツジム、ゴルフ・・・。腰の痛みが消えるまで山登り等の運動は全面中止となりそうなので、毎日読書三昧となる。暇なので前回の続きを書いてみることにする。

 昭和40年代初期の装備を雑誌から拾い出してみた。まず、登山靴だが今と違い大層重かった。殆どが表皮仕様で裏皮仕様は少なかった。靴底は高価なものはビムラム仕様で、安いものはゴム底となる。

 ビブラムは当時靴底に使われ始めたばかりで、摩耗に強くイタリー製だ。また当時はハイキング専用のキャラバンシューズというものもあり重宝された。ナイロンと帆布等で出来ていて底は当然ゴムで柔らかでした。保温、防水効果は期待出来なかったが軽くて足にも優しかったので夏期の北アルプスなどでも結構使われていたものだ。

P1020411.jpg 特に、女性やハイカーには人気があった。価格も1500円~2000円程度だったと記憶している。しかし、重荷を担いだり、雪山となると今で言う革製の重登山靴となる。価格は5000円~15000円程度で品質にも相当な差があったようだ。

 イタリー製だがツェルマット社製は軽く、皮も柔らかく靴底もビムラムで格好も良かった。なによりも色が茶色で当時の黒一色と比べ目立ったものだ。当時はベテランのお年寄りなどは鋲を靴底に打ったものを履いていました。ナーゲルと言いましたが足首に折り返しなどもあり超重そうです。下のほうに画像がありますがスゲー迫力です。

 大昔はこんなもの履いて岩登りもしてたようです。あな、先達とはオトロシヤれす。当時は普通の紳士靴も靴底は皮だったため減る箇所に鋲を打ち、減れば定期的に鋲を取り替えたものです。

 冬山では登山靴はシュラフの中にいれて寝ました。テントの中に放置しておくと朝、凍って履けなくなってしまうのです。皮の加工技術が稚拙だったのでしょうし、テント内も寒かった。山登りを始めた頃はキャラバンシューズでした。六甲山、比良山、葛城山、大峰山系、剣山、石鎚山、伊吹山、大山・・・などはこのキャラバンシューズを履いて一人で登ったものです。

 当時、自家用車を持っている山屋はまず見なかったですね。乗り合いバス(鼻先の出っ張っている)利用ですが道路もお粗末でしたので歩く距離は今と違って相当長かったのです。

 山岳会に入り革靴にしましたが何度か買い換えました。春夏秋冬いつも同じ靴ですから傷みも早い訳です。縦走、岩登り、冬山の全てを一足でこなしました。唯一、沢登りだけは地下足袋と草鞋の併用でした。岩登りのためか、つま先の皮が減って穴があいてきます。当時岩登り専用のクレッタシューズも出始めましたがまだ使う人は少なかったですね。

 冬山はこの革靴の上にオーバーシューズを履きアイゼンを着け状況によりワカンを付けます。オーバーシューズは今のスパッツとテントシューズを合体させたようなもので現在でもヒマラヤのような高所では特殊な仕様で使われているようです。スパッツも当時ありましたが靴の保温性が悪いためオーバーシューズでそっくり靴全体を包み込んだのです。

 勿論、プラスチック仕様や化学繊維仕様の保温性に優れた高所用の登山靴の登場はずーっと後のことでした。ワカンも木製でしたので軽かった。特に立山芦峅のワカンは良かった。今でも売ってるようですが。

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 ピッケルとアイゼンです。当時、山之内、シモン、門田などが有名でした。シャフトは木製でアマニ油などで手入れしたものですが強度は弱かった。あたしも門田のピッケルを一本折ってしまった事があります。今のようにシャフトが変形していてアイスクライミング専用は無かった。ピッケルを短くしたアイスバイルはありましたが。ブレードとピックは炭素鋼で日本刀の材料と同じだと、当時のあたしのようなバカ者は喜んだものです。高価なものはモリブデン鋼などの特殊鋼が使われていたようです。錆びやすいので手入れは欠かせませんでしたがね。

 昔のアイゼンも軽アイゼンは除き8本~12本爪でした。10本爪も前爪が蹴り込めるように水平に出ているものや下向きになっているものなどがあり、確かアタッチメント方式で前爪を取り替えられるものもあったと記憶しています。当時の国内では今ほどアイスクライミングは盛んで無かったようです。冬期にも入山規制は無く厳冬期の一ノ倉、剣、穂高も自由に入れたので氷壁を求めなくても岩と雪のミックスルートで充分楽しめたものです。昔、日光雲竜渓谷の滝見物に出かけ、友知らずの滝の基部あたりでアイスクライミングの練習をしました。前爪の無いアイゼンだったので少し傾斜が強くなると手こずりますが、昔のアイゼンは爪の形が単純だったので刺さりやすかった気もします。そんなことより最近の温暖化で全面凍結することがあるのかが問題ですがね。もう一度見物がてらに訪れたい場所です。

 今のアイゼンは特殊鋼のプレス打ち抜き加工ですが、昔の海外メーカーのアイゼンなどには本体に爪を溶接しているのもありました。リングも打ち抜き、溶接といろいろでした。当然、溶接技術が悪ければ爪は折れるかもしれないし、焼き入れの巧拙により爪が折れたり爪先がスグまるくなったりしたかもしれません。幸いあたしにはそんな不運はありませんでした。ただ、アジャスト部分の棒状のネジが岩稜歩行により潰れて苦労したことがありました。また、今より相当重かったですね。今は軽量の特殊鋼仕様でワンタッチ式もありダンゴ防止のプレートまで付いている。それでも、当時から40年を経たにしてはそれ程形状も性能も変わってないですネ。世の中の技術進歩と比べれば明らかに遅れていると愚考します。もっともコンクリートのような堅い氷にも爪が楽に刺さるのも考えものです。

 主観的ですが、山の道具や装備の進歩は必要だとは思うが革新的なテクノロジーは使いたくないですネ。ほどほどが良いかと思います。苦労、困難、危険の全くない山登りなんて面白くもなんともありましぇん。
価格はピッケル、アイゼンとも10000円前後でした。登山靴はもう少し高かったけれど、それにしても当時の大卒初任給25000~30000円と比べると高価なのは否めましぇん。

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 ↑ ナーゲルと言われていた鋲を打った登山靴です。スゲーものですね。
キスリングはいつ頃消えてしまったのか?。昔、新人の頃、このキスリングの上に大きな鍋を載っけて歩いたこともある。あたしは新人ですと、丸出しです。恥ずかしかったものです。このキスリングを背負って縦走したこともある。大キレットではキスリングのポケットが岩に辺り身体が振られてバランスを崩しそうになった。沢山の荷物をパッキングできるし、ザックの上部にテントなども積めるので重宝したが岩場の通過では泣きが入ったものだ。また素材が帆布で出来ているため重いし雨にも弱い。
勿論、アタックザックと言って今風の縦長ザックもあり岩登りや2~3日の山行で使っていました。
画像のようにデイバックは上部を巾着袋のように紐で縛っているだけのシンプルなものもありました。

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P1020422.jpg 冬山用のオーバーシューズ、オーバーズボン、ヤッケ、オーバーミトンなどは比較的安かったですがナイロンやビニロン製でした。厚目のテトロン製はもう少し高かったと思います。

 新人の頃は先輩から木綿のヤッケやオーバーズボンを頂きありがたがったものです。「スリップしても木綿の素材はナイロン、テトロンと比べて摩擦抵抗が大きく安全だから初心者にはエエのだ。」なぁーんて言われましたが、一度濡れて凍るとバリバリになるので雪洞では悲惨でした。兎に角、綿や麻の製品はなんでもかんでも全てバリバリに凍りました。靴紐もザックの紐もまるで針金です。

 下着も現在のような特殊繊維仕様で防寒、防水で汗をかいてもスグ乾く・・・夢の夢でした。
当時の冬山の下着は毛糸のパンツとシャツです。しかし、毛糸のパンツはチクチクして気持ち悪かった記憶がありますが・・・。毛糸のパンツは年寄り向けに売られていたのか、それとも毛糸の股引(パッチ)をチョン切ったのか失念してしまいました。
毛糸のシャツと云っても薄手のセーターを下着代わりにしただけですからこれもチクチクとしましたが慣れてしまえば暖かかった。
冬山衣類は全て純毛でした。木綿は「死ぬドー」といつも脅かされていたものです。

 手袋はアメリカの進駐軍の払い下げと云われていたミトンが安かった。大きいのでオーバーミトン代わりに使用しました。アメリカ空軍払い下げ羽毛服なぁーんてものもありました。進駐軍なぁーんて言葉は今では死語ですが・・・。

 テントはビニロンやナイロン製でしたが今のゴアーテックスとは比較にならない代物でした。シュラフも同様ですが羽毛シュラフも出始めた頃です。羽毛の普通サイズは高価だったけれど羽毛の半シュラフは比較的安く手に入りましたので重宝しました。少々寒いのを我慢してシュラフカバーと併用し冬山でも結構使いましたね。シュラフは昔も今もそれほど進歩はありません。羽毛といえど濡れればなかなか乾かない。当時は中国のアヒルが一番エエとか言ってましたネ。

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P1020425.jpg ザイルは40Mか30Mが一般的でした。岩登りのゲレンデではマニラ麻のザイルを使い雪山ではナイロンを使いました。もっともお金持ちパーテイはゲレンデでもナイロンでした。当時のナイロンザイルは伸びるしキンクするし、井上靖の“氷壁”ではないが鋭角には弱かった。

 ハーケンは縦、横、変形といろいろありましたし、埋め込みボルトの全盛期だったかもしれません。何を好んでか岩壁のツルツルの部分を選んで登ります。ボルトとアブミを使えば手がかりの無いオーバーハングも腕力さえあれば越えられたので安易な使い方をされました。


 タガネのようなものをハンマーで打ち込み穿孔し先端にクサビのついたボルトを叩き込みます。ボルトのリングにカラビナを掛けアブミを利用して登ります。スキルでは無く腕力と体力勝負ですし、三点支持もクソも無しれす。身体を宙づりにして両手を使ってドリリングです。堅い花崗岩だと一本打ち込むのに20~30分掛かる場合もあります。両手を一杯上に伸ばして孔をあけるのですからあたしのような非力なものはお呼びじゃなかったです。ボルトのリングは打ち抜きでしたが墜落などすると伸びるし、またボルトがスッポ抜ける場合もあります。
まぁー、ハーケンも同じようなものですが・・・。

 当時、まだ現代のようなカムはありませんでした。木のクサビなぁーんてあったようですが見たことはありましぇん。アイスハーケンも打ち込み式からスクリュー式に変わったところだったし、カラビナも鉄から軽金属に変わり始めたところでした。この時代は人工登攀に向けてのアルパインの歴史の過渡期とも言えるかもしれません。この時代を経て現代のアルバインクライミングにフリークライミングのルートが開拓されたと言えます。すなわち人工的な道具の使用を極力控えて自分の手足を使い壁をよじ登る思想が広がったのです。

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 当時、ホエーブス(コンロ)は石油仕様とガソリン仕様が大半でした。いずれも携帯燃料のカケラなどで少し暖めてガスを発生させてから着火させた。今考えると現代のガス式とは違いモノスゴク怖い代物レス。当時のお進めはスエーデン製だったように記憶しています。縦走などではガソリンや石油の入ったポリタンをザックに入れて担ぐ訳です。蓋をしっかり閉めていてもザックの中は臭くなります。食料品とは隔離しなければなりません。また当時、テントの中でのタバコなど平気だったのでガソリンの補充などはオットロシィ~~のれした。

 冬山では発火点の低いガソリンが好まれましたが気化させるノズルなどが詰まり、たびたびテントの中で分解掃除をしたものです。現代のガスコンロは酸欠が怖いのれすが、当時のホエーブスは生ガスのため目の痛さとの戦いでした。酸欠以前のオソマツなことでしたネ。テントの中の明かりはローソクでしたが百目蝋燭といって太いものを使っていました。でもテントが火事で焼け死んだという話は聞かなかったですね。「・・・・・。」

 飯盒は良く使いました。個人山行は勿論、合宿などでも使いました。行動中はレーションですがビバーク覚悟のアタックに出かける時には重宝したものです。合宿の夜は大鍋で・・・となりますが。その他、高度計などもありましたが、高くて、まだまだ普及には程遠いものでしたね。

 また、長々と書いてしまいました。書いていると当時のことがいろいろと思い出されて懐かしく感傷的にもなります。これが歳を重ねるということでしょう。まだ書き足らないのでいつか機会があれば書いてみたいと思います。

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